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千葉地方裁判所 昭和57年(よ)1号 決定 1982年8月04日

主文

昭和五七年八月六日午後二時千葉県警察市原警察署の婦人少年室の入口付近壁面を検証する。

理由

一本件請求の趣旨及び理由は右弁護人ら作成の証拠保全請求書記載のとおりである。

二そこで検討するに、

1  まず、所論の壁面に存するという記載事項が、証拠保全手続により検証をして保全すべき証拠に該るか否かであるが、いわゆる自白の任意性の挙証責任は当該自白を証拠として請求する検察官側に存すると解されるものの、これについて裁判所に一応の疑いを抱かせるのは弁護人側の立証等の活動によるところが大きく、かつ、自白の任意性の有無は一般に有罪無罪に直接結びつき得る重要な事実であつて、所論のような記載が存するとすれば、それは通常、自由かつ公然とはなしえないものであるだけに、弁護人側の右活動の一助となることは明らかであつて、右保全すべき証拠に該るものというべきである。

2  次に、右記載事項を証拠保全手続により現時点で保全する必要性があるか否かであるが、

(一)  弁護人らの所論中、第一回公判期日後の通常の証拠調手続での証拠調ではこれが隠滅されるおそれがあるとする部分は、それが、公判を維持追行する検察官が自ら又は第三者を介して右隠滅工作をなすおそれがあるという趣旨であるならば、いかに対立当事者であるといつても公益の代表者たる検察官が左様な姑息な手段をとるようなことはないと考えるべきであるから、直ちにこれに与することはできない(なお、証拠保全として検証を行う場合でも、検察官は、右通常の証拠調として検証を行う場合と同様、立合権を有しているので、その意味で事情はさほど変らないものといえる。)。

(二)  だがしかし、右所論が、被告人に暴行を加える等した警察官が存し、その警察官が自ら又は第三者を介して右隠滅工作をなすおそれがあるという趣旨であるならば、それは一理あるものというべきである。けだし、暴行を加える等した警察官がいるならば、右警察官はそのことにより刑事上や行政上の処分を受けたり民事上も責任を追求される可能性が存するのであり、公判の裁判が公開の法廷で行われること等により何らかの方法で本件の壁面の記載事項が存することを知つた場合には右の処分等を免れるためにこれを毀滅する所為に出ることは十分に考えうるからである(なお、証拠保全としての検証をなす場合にも警察署長への通知及びその立合が必要であり、このことから第一回公判後と事情は変らないとの考え方もあろうが、右通知等により、いわば警察の組織ぐるみで右毀滅の所為等卑劣な手段を弄すると考えるべきではない。)。

(三)  更に、弁護人の所論中、他の留置人や担当の警察官等により右記載が意図されずに消されてしまう可能性があるとする部分は、そのとおり首肯しうるところである(なお、本件では被告人が千葉刑務所に移監されて相当の日数が経つてから証拠保全の請求があつたものであるが、右請求が遅くなつたことについては弁護人作成の報告書等に記載されている事情の下ではやむをえないと考えられる。)。

(四)  ところで、右記載が存するとされる場所は、被告人(現在も千葉刑務所に勾留中である)及び弁護人らにおいてた易く立ち入ることはできず、被告人に有利な証拠も収集すべきであろう検察官等に対し、弁護人らにおいて右記載を前記のような証拠であるとして収集することを求めたとしても、右記載がそのようなものであるか否かの判断は検察官に委ねられており、検察官が右求めに応じるとの保障もこれを強制する手段も存しないことから、既に公訴の提起されている本件において弁護人らが対立当事者である検察官に右を求めた形跡がないことを殊更考慮するまでもなく、弁護人らにおいて本件の請求をする以外に自ら右証拠の収集やその毀滅を回避するための有効で容易な方法は見い出し難いというべきである。

(五)  これに加えて、本件の被告事件は殺人を含む重大なものであり、右保全さるべき証拠によつて立証しようとする事実も又重要なものであることを考えれば、第一回公判期日(昭和五七年八月一七日)まで余り期間はないとの事情は存するが、現時点において明暸に存した前記記載が後日(例えば、右被告事件の審理を担当する裁判所が本件の如き検証を行うとすればその時まで)何らかの事情で毀滅するに至つた場合には、右記載の存否等を巡つて公判の審理に無用の混乱を惹起するおそれもあり、そのような禍根を残さないためにも現時点で検証を行ない、現時点における記載の存否等を明らかにしておくのが相当と考える。

以上のことから、保全すべき必要性も存するというべきである。

3  なお、右保全の必要性の疎明の程度であるが、本件の如き事情の下では弁護人作成の報告書及び上申書二通に記載されていること以外にそれを求めることは難きを強いることになり、右各書面で疎明は足りているものと考える。

三以上の次第で本件請求は理由があるものと認め、主文のとおり決定する。

(笠井勝彦)

[証拠保全請求書]

第一、事件の概要

被告人は、添付の起訴状謄本写しのとおり、殺人罪及び窃盗罪に該当する犯罪を犯したとして、本年六月一四日、御庁に起訴され、現在、右事件は、刑事第二部に係属している(第一回公判期日、八月一七日午前一〇時)。

第二、証明すべき事実

被告人は、五月二四日、強盗殺人罪により逮捕され、直ちに市原警察署に引致されて、起訴後である六月一五日まで同所に勾留されていた。被告人は逮捕当初、被疑事実を全面的に否認していたため、連日、長時間にわたり、暴行、脅迫を交えた苛酷な取調べを受けた。そのため、結局、六月二日、真実、罪を犯していないのに虚偽の自白をせざるを得なかつた。

被告人の取調べに際し、被告人が暴行を受けた事実及び被告人の自白は、取調官の暴行・脅迫によるものであり任意性がないことを立証する。

第三、証拠及びその保全の方法

被告人は、市原警察署に勾留中、保護房第五号に留置されていた。被告人は、連日、暴行・脅迫による取調べを受け、それに屈して虚偽の自白をした無念の思いから記録を留めておきたいと考え、秘かに、右房内の壁面に、トレーニングウェアのファスナーで、日付、暴行部位等を書いておいた。

そこで、自白が暴行・脅迫によるものであつて任意性がないということを立証するため、右房内(入口付近右手壁面)に残された記載事項について検証していただきたい。

第四、証拠保全を必要とする事由

前記証拠を第一回公判期日後の、通常の証拠調べ手続において調べることとなれば、その存在が事前に捜査官に知れてしまうので湮滅されるおそれがある。

殊にそれが捜査官の手許に置かれていることから、その危険性は大きい。

また、その意味がわからないままでも、他の留置人によつて、あるいは、担当警察官の室内検査によつて、意図せずに消されてしまう可能性もある。

よつて、第一回公判期日前に、速やかに、検証をしておかなければその証拠の使用が困難になるので、本請求に及んだ次第である。

疎明資料

報告書   一通

添付書類<省略>

[上申書]

一、本件は、市原警察署取調官が黙秘あるいは否認をしている被告人の取調べに際して、暴行をおこないもつて被告人を自白(しかも虚偽の)せしめたというものです。

ほんらい、司法警察員は、被疑者の取調べにあたつては、被疑者の人権を不当に制限してはならず、そのことは義務でもあります。しかし、実際には「証拠の王」である自白ほしさに取調官と被疑者であるという立場の差を悪用して暴行も含めた職権乱用がおこなわれています。

とくに本件は、事件発生が昭和五六年一一月二五日であるのに、半年間被疑者不詳のままであり、半年後の本年五月二四日にようやく被告人を逮捕しました。

そのようやく逮捕した被告人が黙秘や否認を続けたことについて、取調官が焦りといらだちを感じたことは容易に推察されるところです。そして、事の是非はともかく、なんとか「自白」させたいあまり、被告人に対して暴行を含めた乱暴かつ高圧的な取調べがなされたこともまた推察されるところです。

そして、取調官が被告人に対して暴行をふるつた何らかの痕跡、証拠が残されているならば、それを湮滅しようとするのも極く当然のことであるともいえます。

取調官が被疑者に対して暴行をふるうことは厳にいましめられているところであり、刑法上も特別公務員暴行罪として厳しく処罰される性質のものです。その証拠があることを発見しながらそのまま放置するなどということはおよそありえないことであり、したがつて証拠保全の必要性も大といえます。

二、八月三日付上申書で述べたように、私は六月五日及び九日の二回、市原警察署に拘留されていた被告人と接見しました。その際、被告人は司法警察員あるいは検察官に話した(話させられた)ことしか話さず、私が不明な点や矛盾があると考えたことについて質問しても「もう話したから仕方がない」というような返答でした。そして、私が事実と異なることを供述することが、あとで取りかえしのつかない重大な結果をもたらすものであるかということをたん念に説明しても十分受けとめてもらえませんでした。

そこで私たち弁護人は、被告人との接見は、しばらく時間をおいたほうが、被告人もその間冷静に考えることができよいであろうと考え、その後

① 被告人の友人、知人などから、「事件」後の被告人の挙動(例えば、不自然なところがあつたかどうかなど)について

② 事件当日、被告人の経営するスナック「カルダン」にいた客、従業員から被告人のアリバイに関する事実

③ 散弾銃に関する資料知識の収集(散弾銃に詳しい被告人の知人からの事情聴取、文献調査)

などの調査活動をおこないました。

そして、六月二八日、高橋主任弁護人が、千葉拘置所で被告人と接見し、凶器とされる散弾銃に関する事実から事情を聞きました。そうすると、接見の終りころ、被告人は、「自分はやつていない」という趣旨のことを話しはじめたのです。

その後、七月一〇日、私と青木弁護士が千葉拘置所で被告人と接見し、被告人が、犯行について完全に否定していること、そして、その事実を房の壁面に記載したという事実を確認しました。

この時点で、私たち弁護人は弁護方針の検討に入り、全面的に争うことを確認しました。そして、その中で、証拠保全についても検討したが、その前に記録を検討したほうがいいと考え、千葉地方検察庁担当検事に記録を至急閲覧したい旨要請しました。何度か催促の電話をしましたが、最終的に「記録の量がぼう大であるため、八月のはじめにならないと整理が終えない」という返答であつたので、記録閲覧の前に証拠保全の申立をすることにし、本申立をなすに至つた次第です。

[報告書]

一、去る七月一〇日午前九時から約一時間、千葉拘置所において、殺人等被告事件被告人川嶋日出男を接見してきましたので、以下、その内容を報告いたします。

なお、右接見には青木信昭弁護人も同行いたしました。

二、まず、起訴状公訴事実は「被告人は第一昭和五六午一一月二五日午後八時一五分ころ、千葉県市原市金剛地一五七九番地先道路上において、大曽根正男(当時三五年)に対し、殺意をもつて、所携の散弾銃で同人の左腹部等をめがけ三発発射し、よつて、即時、同所において、同人を腹部銃創による外傷性ショックにより死亡させて殺害し第二前同日、同所において、現金八〇万円在中の財布一個(時価四万円相当)を窃取したものである。」というものですが、川嶋は、このような事実はまつたくなく事実無根であると強く主張しました。

三、ところが、被告人は自白しておりますので、私は、被告人に対し、なぜ自白したのか問うてみました。

被告人は、本年五月二四日市原警察署に逮捕されましたが、六月一日まで、取調官に対し被疑事実を否認し、犯行はおこなつていないと主張していました。しかし、逮捕から一〇日目の六月二日ついに虚偽の自白をするに至りました。それは、その間、暴行も含む苛酷極まりない取調べによるのだつたということです。

まず第一に、長時間にわたる取調べです。逮捕されて以降連日にわたり、午前八時ころから深夜二時ころまでの間、わずかな食事の時間を除いてひつきりなしの取調べを受けたということです。

第二に、取調方法ですが極めて乱暴なものであり、かつ、脅迫と利益誘導によるものであつたということです。取調官は被告人が事実について争うと繰返し大声でどなりつけたということです。被告人は「当時市原警察署に逮捕されていた森某、宮崎某、渡辺某ら六、七名の者が、自分が刑事に怒鳴られているのを聞いているから、是非その者たちから聞いてもらいたい」と私たちに懇願しました。また、「お前のやつたことは全部わかつている素直に喋れば三年くらいで済せてやるが、ウソをつくと一生刑務所暮らしになる。家族はどうなるのだ。」などと執拗に追及されたとのことです。

特に許し難いのは取調官による暴行です。被告人の取調べを主に担当したのは、渡辺刑事及び三枝刑事の二名ですが、渡辺刑事は被告人が「自白」しないことに憤激し、取調室において被告人の手首をつかみ逆さにねじりあげたり、腹部や肩部など外傷の残存しないところを狙つて殴打しました。

被告人は、乱暴な取調べや暴行に対し、やりようのない強い怒りと屈辱、無念さを感じ、その思いを決して忘れないように何らかの形で残したいと考え、着用していたトレーニングウェアのズボンについていたファスナーで、被告人が勾留されていた市原署保護房壁面(扉を開けた右手高さ一メートルくらいの場所)に暴行の日にちと具体的内容を記したとのことです。

私は、六月五日及び九日の両日、市原警察署において被告人と接見しましたが、そのとき、被告人は、私が何を聞いても「もう仕方ありません」「ほんとうのことを言つても信じてもらえなかいからもういいです」「耐えられません」などと答えていました。この被告人の態度は、取調官の暴行、脅迫によつて虚偽の自白をさせられた無念の思いから出ていたのだと思います。

ところで、私どもの調査によれば、被告人は、大曽根が殺害された時間は、自ら経営していたスナック「カルダン」(大網町)から外出していますが、外出したのは午後八時すぎころから約一五分ないし二〇分程度です。

この点については、被告人の妻、「カルダン」従業員及び客が知つています。

私は、六月一三日に被告人の友人の協力を得て、実験してみましたが、右「カルダン」から、事件現場までは車を利用しても往復約三〇分を要し、被告人が大曽根を殺害したということは客観的にも不可能です。

被告人は、右時間外出して近隣のスナック等の客の入り具合を見て回つたということですが、これは被告人が習慣としておこなつていたものです。

被告人の自白は虚偽の自白であり、しかも前記のとおり取調官の暴行、脅迫によるもので任意性もまつたくありません。

その自白の任意性を公判廷において立証するためには、市原警察署の保護房五号室に被告人が書き記した事実及び内容を自白の任意性を争う証拠として提出する必要があります。

しかし、証拠の存在する場所が、被告人を取調べ、また、被告人に対して暴行をふるつた場所と同じ市原警察署であり、被告人が暴行を受けた事実を書きとどめていることが判明すれば直ちに抹消される危険性が極めて大です。

そこで、第一回公判期日前に、証拠保全しておく必要があると考えます。

なお、本報告書は、接見当日の私のメモにもとづき作成したものです。

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